保育の世界に限らないかもしれませんが、変化のスピードが遅い業界では往々にして「何のためにやっているのか」が不明瞭になる活動や行動が増えてきます。

「これまでどおりでいいんじゃない?」
「今までは問題なかった」

こういった考え方がその業界の大半の人に染み付いている場合には、往々にして「何のためにやっているのか」が不明瞭になります。
そんな時に外部の環境が大きく変わってしまうと、取り残されてしまったり、新しい感覚を持つ人からすると「違和感」が生まれたりします。

保育という営みは人が育つ(成長する)ことを支え、人が生きていくための営みです。

そして、人が育つこと、人が生きることはありとあらゆることが同時にまた連続的に起きる活動です。その中で「何が必要か?」を見極めることは非常に難しいことです。もしかすると切り分けることは不可能なのかもしれません。

それでも事業として保育園を経営していく以上、何から何まですべて行うということは不可能です。限られた人員と限られた資源と限られた資金の中で一定の保育の質を担保しながら継続経営ができるように切り盛りしていかなければならないため、どこかで何かを諦めるもしくは割り切る事が必要になります。

ところが昔から同じような取り組みを長く続けており、「去年と同じようにすればよいよね?」という考え方が抜けない保育園では「とにかく今まで通りやっていればいいじゃない」という考えになってしまい、「何が必要か?」を考えなくなってしまっています。これは自分の園でも頻発していることですし、他の園でも頻発していることだと信じたいです。

世の中の環境は大きく変化しているにもかかわらず、保育や教育の世界が取り残されているようだと、そこで生活する子どもたちに悪影響が及びます。保育園や小学校、中学校、高等学校の常識から世の中に放り出された瞬間、あまりにも違う環境になじまなければならなくなるのです。そうすると子どもたちの心と体に強烈なストレスが生じ、適応障害になったり、変な形の適応の仕方(極端な意見や考え方に身を委ねる)をしてしまいかねません。

これからの時代は「何のために」という目的意識がとても重要になります。なぜならそれは生物としてのヒトが生きていくために最も重要で強力な力だからです。

今まではある程度社会の型が決まっていたため、あまり「何のために」を考えなくても生きていくことが出来ていました。ところが、これからの時代は「何のために」を決めてくれる存在はいなくなります。型が無くなっていく、もしくは無数の型が溢れる社会になります。そのような社会の中で幸せになるためには、自分自身で「何のために」を考えて決めていく力が必要です。

子どもには「何のために」を決める力にあふれています。また、動物も「何のために」を決める力を持っています。それは「生きるために」と「面白い」です。

子どもは自分ひとりの力で生きていくことが出来ないほど未熟な状態で生まれます。そして生きていくために自分を保護してくれる存在にアピールして、自分のことを愛してくれるように全力を注ぎます。それは「生きるため」に必要な行動を本能で選択して全力でその行動を行います。

そして、自我が芽生える頃には「自分が面白いと感じること」「やりたいと感じること」を全力で取り組みます。それを妨害する存在は、仮に自分を保護してくれる存在であっても強烈に反発します。俗に言うイヤイヤ期というやつです。これは「生きていく」という目的の他に、「面白い」という目的のために行動を取っているのです。

このぐらいの年齢まではシンプルな目的で行動するので、比較的シンプルな行動しか行いません。ところが自我がはっきりしてくると、今度は他者の存在を認識します。そして他者との関係をうまくしていくことも生きるために必要だと気づき始めます。そうすると「他者のために」という目的も出てきます。自分のためだけでなく他者のために何かをすることが、結果的に自分のためになるし、他者と一緒に何かをすることが「面白い」と感じるようになります。

そこから他者との関係や複数人の集団同士の関係など、どんどんと世界が広がっていき、「何のために」という大切なものが見えにくくなります。複雑に絡み合う複数人の「面白い」を一斉に満たそうとした結果、自分の「面白い」との関わりが薄まってしまうのです。

そして、小学校に入学すると「学校」という存在から「こうするものです」というルールが与えられます。もちろん学校に入る前からすでにルールがありましたが、その強制力はあまりにも違います。ほとんど一切の妥協を許さないほどの強い力で「こうするものです」と決められます。そして、そのルールに従わないヒトは人にあらずというほど阻害されます。

教員のいじめ事件(これは暴行事件ですが、わかりやすいようにいじめとします)が報道されましたが、教員の間でこのような人間関係しか作れなかった学校では、子どもに対しても同じような関係を強いていたことが想像されます。大人が与えるルールに子どもを従わせていることは、このようなリスキーな環境にあることを自覚しなければなりません。

 

だいぶ話がそれましたが、これまで大きな変化を感じてこなかった保育や教育の世界には「何のために」という視点が欠けていることが往々にしてあります。

保育の流れも「去年と同じでいいよね」ではなく、この活動は何のためにするのか?それが子どもの最善の利益につながるのか、目の前の子どもたちの今の発達とマッチしているのか、子どもたちの興味関心と整合しているのかを常に見直すことが、より良い保育につながるはずです。ところが、それをせずに「こうすれば失敗しないから」「去年と同じようにすれば考えなくて良いから」という保育では、子どもたちは「飽きて」大人の言うことを聞かなくなります。そうするとそれをコントロールするために「ルール」や「締付け」を行います。

子どもたちは「生きるために」と「面白い」というもののためにエネルギーを使います。お腹が空いたからご飯をたくさん食べる。お腹がいっぱいだから少し休憩しながら静かに過ごす。休憩でエネルギーを回復したから外でしっかり遊ぶ。楽しい遊びを一緒にしてくれたから、この大人のことが好きになる。好きな大人だからその人の話を聞く。この人の話を聞いていたら面白いことや楽しいことが起きそうな気がするから、その人の言うことをみんなで守ったほうが良いと思う。

こういった正しい流れの人間関係が出来ているのが良い保育、質の高い保育だと思います。

これは自分の保育園での反省を強く含んだ文章ですが、目指す保育の姿・状態を明確にして、わかりやすいメッセージとして職員に伝えることが経営者としてやらなければならないことだと思います。

 

まずはこの長ったらしい文章をイメージ図にして、誰もが右脳で理解できるようにすることから始めなければなりません。

そして、そのイメージ図と整合するショートメッセージで保育園の保育目標にしなければなりません。

その目標に向かって全職員が一緒に取り組むことが出来る、もしくは、一緒に取り組みたいと思える環境を作らなければなりません。

経営者としてやることは山積みです。理念を明確にすること、理念を伝わりやすい表現にすること、理念を理解した職員が「行動したい」と思える環境を作ること、行動した職員に対して評価をすること。

全ては子どもたちが「何のために」を自分で決めていくことが出来る社会を10年後20年度に作り上げるためです。自分の仕事は、そのために必要かつとても重要な仕事なのだとこのブログで宣言して、行動を変えたいと思います。

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