常識については過去に何度か記事を書いたことがありますが、今回常識について悩むようになってきたので、少し記事にまとめたいと思います。


「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」

これはアインシュタインの言葉と言われています。正しい意味や解釈については文脈を正しく捉えておかないといけませんが、あえて都合よく解釈してみたいと思います。

18歳までの人生とは、非常に狭い世界で生きてきたということです。その中で身につけられる考え方や価値観はとても限定的なものと言えるでしょう。それでもその限定的なものを「常識」と思って、他の人達も同じように考える、同じように感じると思いこんでいる人がとても多いと思います。

一方で、その言葉にもあるように、「常識」というのは「偏見」、しかもその「コレクション」なのです。偏った考え方や偏った価値観でしかなく、そしてそれはとてもたくさん持ち合わせているものなのです。さらに、その「偏見」をとても大切にしている人が多いのです。

例えば自分の常識と違う行動や言動を経験すると非常に不快な思いをします。「ありえない」と頭と心で拒否をしてしまうのが通常です。

交通ルールを守ることは当たり前だし、それを破る人の考えることは理解できないと思っている人がいるとします。その人にとってルールを守ることは常識ですし、交通ルールのように多くの人が守らなければ自分も他人も生命身体が危険にさらされることについては、特に守らなければならない度合いが強いルールと思っています。

一方で、ルールはルールとして守らなければいけないが、状況に応じて交通ルールを破ることは許されるのではないか?と考える人がいるとします。その人にとって、車が一台も走っていない道であれば、横断歩道でなくても横断するかもしれません。多少の赤信号は無視するかもしれません。制限速度も多少であればオーバーするかもしれません。

この二人の間には常識の違いがあります。

この程度であれば「そういう人もいるよね」という程度で収められるかもしれませんが、中には「絶対に許せない」という人もいるかも知れません。

同じようなことが保育の世界でも起きています。

自分の保育スタイルは「保育の常識」と思っている人がいたとしたら、その人の「常識」と異なる保育スタイルの人に対して強い違和感を感じるでしょう。それだけであれば生きていく中でよくあることなのですが、保育においては不思議なことが起こります。

例えば年齢が上の人や経験年数が長い人が、そうでない人(例えば若手など)の保育スタイルを見聞きして、「ありえない」と感じたとします。そのときにどんな対応をするのか?に特徴があります。

よくあるパターンとして、人格を否定するのです。

保育の世界では子どもたちに対してとても優しい人が多くいます。一方で、大人に対して非常に冷たく関わる人も多くいます。悲しいことですが、保育士で心の病になる人が多かったり、人間関係を理由に退職する人が多いのはその現れです。

子どもは保育士たちに全幅の信頼をおいて関わってくれます。保育者は自分たちの言うとおりに子どもが動くことを「気持ちよく」感じてしまうリスクを常に背負っています。

もちろん集団生活なので、ある程度保育者の促すように子どもたちの生活をコントロールすることは必要になるでしょう。それでもコントロールすることが「気持ちいい」と感じてしまうと、そうでない子どもに対して辛く当たったりしてしまいます。これがリスクです。

ある人はこのことを承認欲求の現れと捉えています。また、ある人はこのことを歪んだ自己肯定感の獲得と捉えています。いずれにしても、子どもたちの人生にとってプラスにならない悪い事象です。

一方で、大人は子どもたちのように思うように動かないことがスタンダードです。周りの人たちは自分の思い通りにならないことが普通です。そこに保育者はストレスを感じます。

「子どもたちは言うことを聞いてくれるから好きだけど、大人は(特に気に入らない同僚は)こっちの言うことを聞いてくれないから好きじゃない」という思考回路になってしまいます。

これは基本的なスタンスに誤りがあります。

子どもたちも自分の思い通りにならないのが普通なのです。理由は明白で、子どもであっても一人の人間ですし、大人と同様自分の思いを持っています。そして、他人から自分の思いを捻じ曲げられることは不快なのです。

ところが、子どもたちはその不快感を抑えて保育者のいうことを聞くことがあります。なぜそのようなことをするのかといえば、子どもたちは大人がいなければまともに生きていくことができないということを本能的にわかっているからです。

赤ちゃんは自分の不快感を泣くという形で示します。それしか示し方を知らないからです。
1歳頃の子どもで自分と他人(特に信頼関係のできている大人)との区別がついてきた子どもは「好きです」という表現をするとともに、「嫌です」という表現もするようになります。自分の思いを捻じ曲げられることは許せないと明確に表現するようになります。そこで大人からしっかりと受け止めてもらえた子供とそうでない子どもでは、将来に大きな差が出ます。

ところが、この頃の子どもはまだ一人でできることが限られています。それもわかってくると、「嫌だけど仕方がないから言うことを聞こう」という対応を取るようになります。または、「この人に嫌だと言っても聞き入れてくれない」と諦めるようになります。一つの例として、大人の言うことを素直に聞きすぎる子どもがその姿です。

また、自分の思いを表現しても聞き入れてもらえないのであれば、不快感が解消しないので、別の形で不快感を解消しようとし始めます。
「予定通り怒られた」「親の嫌がることをしたら、またこの人がこっちを見てくれた」を求めるようになります。負の注目を集める行動です。

こういった子どもたちの成長を促さないようにしなければいけないのが保育者なのですが、先に書いたように、保育者は「子どもが自分の思い通りになるのが気持ちいい」と感じる人がいます。そういう人にとっては、思い通りにならないこは可愛くない子どもとなり、思い通りに動いてくれない大人は「気に入らない人」となってしまいます。

可愛くない子どもと気に入らない人に対しては無視をしたり、暴言を吐いたり、疎外感を与えたりして自分の優位性を保とうとします。そして主従関係を作り、自分のほうが上だと自分で感じて満足してしまいます。

そのような関係を作ることに違和感を感じなくなった人は、「自分は常識的な保育をしている」「自分は常識人だ」と思い込んでいます。

常識とはそれぞれに異なっていることを理解しておかないと、「あの人は常識がない」とレッテルを貼って自己満足してしまいます。
自分には常識があると思っていることは悪いことではありませんが、それが他の人も同じように感じていると思わないほうが良いと思います。

職場において認識のズレを感じているときには、このことを意識してみてはどうでしょうか?特に職員が「あの人の価値観は私とは合わない」と思ったとき、間違いなく相手も同じように感じています。それでも職場の同僚であれば、一緒に仕事をしていかなければいけないのです。

どうすればよいのか?をしっかりと考えて、今の状態を良しとせず、今よりもっと良い状態を目指していかなければ、あなたの保育園はきっと「質の低い保育園」となってしまうでしょう。

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